裸婦の目触れろ、白蝮踏め

安酒と薬にどっぷり漬かってラリりながら書いてるオナニー文章です

セミファイナリスト

ミスiD2021セミファイナリスト選考で落ちることができました。

前のブログでも言っていた通り、ぼくは精神医療の呪縛から解放されたくてミスiDを受け始め、前回はファイナリストまで残してもらえました。
しかし前回は自殺未遂というまさに精神科関連の問題であと一歩賞までたどり着けず、心にわだかまりを残したまま終えることになりました。
そうして、精神医療という粗雑な枠組みからぼくを見つけて救いだしてくれるのはミスiDだけだと思い、リベンジとしてミスiD2021を受けることにしたのです。

カメラテストまで進出できる自信は正直ありました。
しかし、コロナウイルスによるZoomでのオンライン審査で審査時間が1分間ととても短くなってしまい、3分間を前提に作っていたぼくの文章は読めなくなってしまいました。
そこでなにか代わりになる特技を持っていればよかったのですが、ぼくは文章を作って読むという能力しか長けたものは持っていません。著作権上朗読も禁止されていたので、結局ギリギリに中途半端な出来の自作の文章を読むしかありませんでした。

正直このクオリティの自己PRと質疑応答でセミファイナルに行けるとは思っていませんでした。だから、セミファイナリストの発表日のこともすっかり忘れてしまっていました。
前回すでにやったことや言ったことを除くと、もうそのくらいしかやることが残っていなかったのも事実です。驚いたことに、学こそないがそれなりの知識教養と自己を持っていると思っていたぼくですが、ふたを開けてみるとたった1分間自分を表現する能力すらなかったのです。

ぼくはようやくミスiDからも卒業できます。正式には落第と言うべきかもしれませんが、本当はみんな2020のあの授賞式、卒業式でミスiDは卒業していったのですから、ぼくは高校と同じく留年して、一足遅れてミスiDというものから手を引くことができます。

精神科を出て、ずっと戻りたいと思っていたけれどミスiDのことを考えているときだけは精神科のことを忘れられた。
2020で最終審査を受けられなかった悔しさを思い出して、戻ってはいけない場所だと自覚できた。

前回は明らかに精神疾患のせいで失敗したけれど、今回は違う。
単に自分がつまらない人間であったから落とされたのだ。IQ130の言語性ギフテッド、それでいて重度のADHD。高校を留年して、精神科に入院していた。
それ以上の人間としてのキャラクターがなかったから、それを使い古してしまった今それ以上の評価をもらえることがなかったのだ。
現実の自分の実力を見てもらえて、それで落とされた。ようやくミスiDと精神医療(精神疾患)が自分のなかで切り離された。

なんだ、別に病気じゃなくてもうまくいかないもんはいかないんじゃん。
逆に、病気の力や名前を借りてじゃないと評価されない場所で自分がやっていけるとも思えない。


これでよかった。
進んだ人、頑張ってください。
ミスiDセミファイナリストはこちらから見れます。↓
https://miss-id.jp/semifinalist/2021

三種の神器

16日、診察で大学入試共通テストの合理的配慮を申請するための診断書を医師から受け取った。
その診断名は注意欠陥多動性障害(ADHD)……だけではなかった。
自分が今まで「これにだけは」と日々最低ラインとして見ていた、「アスペルガー症候群」が並んでいた。
ぼくは一瞬にして泣きそうになってしまった。精神科に通って3年、はじめての指摘だった。2年入院して今さら初めて診断されるものとは全く思っていなかったので、全くの無防備だった。
幸い、医師いわく「あなたはADHDと、合併した双極性障害の傾向が強く、アスペルガーはあまり目立った障害ではないが、申請用紙の文脈から入試センターが求める回答が‘発達障害区分’での配慮を志願する目的が強かったので、双極性障害による支障があまり強く押し出せなかった。細部へのこだわりの強さや空気を読もうとしすぎて空回りしてしまうところをとってアスペルガーと診断した。自信をもっての回答ではないので」と言ってもらえたが、診断書に書かれてしまったものはまごうことなき自分の障害である。

そこで今までのぼくのステータスに回帰してみる。
衝動性優位のADHD+言語理解高IQ、それに加えて今回のアスペルガーである。


……バケモンではないか。


言語理解能力が異常に高く言葉の裏の裏まで読んでしまう性格で、そのうえ他人の言っていることはよく理解しようとせず自分の我を押し通そうとするこだわりの強さ。加えてキレると何をしでかすかわからない衝動性。
これで何が怖いって、これがボーダー(境界性人格障害)から来ている症状ではないということなのだ。
ボーダーなら薬物療法やカウンセリングでなんとか治療していくことができる。その症状自体が病気だから。その人自体に悪意や他意は全くなくて、病気のせいでその人の人格が歪められていると思えば周囲の人間も我慢して付き合っていくことができる。
しかしぼくの場合は「言われたことを取り込み解釈すること」「その解釈を飛び越えて自分の我を押し通そうとすること」「限界を突破して強行手段にはしること」の担当分野がそれぞれ別々なので、薬で治療しようがない。カウンセリングを受けても2つめまではなんとかなっても、3つめの衝動性に関してはその場にならないとどうしようもない。暴れだしたらもう遅くて、事前に防ぎようもない。手がつけられないキチガイなのだ。
普段は「死にたい」としかいわないので「また言ってんなーこいつ」くらいに捉えられているが、油断すると突拍子もないところで不意なことをきっかけに実行してしまう。
去年の8月の未遂事件もそうだった。あれはたしか、前日まで書いていた体育のレポートに疲れて人生に絶望したという要因が大きかった。
当然人と関わることはできないし、仲良くもなれない。だからこの歳になって対等な友人と呼べる存在はただのひとりもいない。学校に通っていないのも大きな原因のひとつではあるが、幼少期「幼馴染」といえる子と共に通っていたソフトボールのクラブチームも、ハブられて小四で辞めた。
思えば昔から気がつけばなぜか周囲から距離をおかれていたり嫌われている傾向にあった。そのせいか、自分に珍しく寄ってきてくれる奇特な子にはかえってきつく当たってしまうこともあった。
中学の部活動は後輩が慕ってくれて楽しかったが、引退したらそれきりで、高校ではもうスポーツや趣味に励む気力さえ残っていなかった。
人に擦れていないので人生経験や貞操観念というものもうまく育たず、アルバイトも全てやめてそれでも実家を出たくていまは援助交際でちまちまと貯金をためている。
そのお金も衝動的に使ってしまうので、親は「金銭管理ができないから」とぼくを独立させようとはしない。
毒親のもとで育てられたニンゲンの亜種は、今日も明日も明後日も毒親に縛り付けられて、いつかニンゲンになれる日を望んで息をしている。もうニンゲンになどなれないと頭では分かっているのに。

神様はどうしてぼくみたいなドハズレを生み出したのだろうか?
ADHD+言語理解高IQ+アスペルガーなんて、普通の神経してたら考えつかないほどの仕打ちだ。きっと神様もお遊びで博打打ってつくったに違いない。

ところで最近、「完全自殺マニュアル」が手放せない。死のう死のうと思っていても、これを読むと怖くて死ねなくなるのだ。薬も用意できるし、首を吊る道具だってある。さっき言った衝動性さえついてくれれば、電車にはねられて憎い親を賠償金地獄にすることもできる。
けれどなぜかこれを読むと息が止まるのが、心臓が止まるのが怖くていつか自然に死ねる日も来てほしくなくなる。
「死のうと思えばこんなに簡単に死ねる。だから今日はとりあえず生きてみよう。それでだめなら明日死ねばいい」というようなコンセプトで書かれたはずのこの著書だが、ぼくには思わぬ抑止力となった。

さて、うまく生きることもできず死ぬこともできなくなってしまった。
明日はどんな不幸が待っているのだろう。もはや楽しみで仕方がない。

感傷中毒の患者

車窓から外を眺めながら大和朝倉ゆきの区間準急に揺られ、途中の某駅まで。
いつもの帰り道だ。
どこへ向かった帰りもここを通って帰る。
しかしその日は違った。
本町駅から発車してまもなく、夜の景色に浮かぶある施設の蛍光灯が、やけに眩しく見えていることに気がついたのだ。

大阪赤十字病院

ところどころブラインドで遮られた、そっけないただの蛍光灯。
白い天井が少しだけ窓枠に切り取られて見えている。
なかでは夜勤の医師や看護師たちがナースコールにあわただしく対応していることだろう。

そんな大きな総合病院。
そこがぼくにはユートピアのような、ガンダーラのような、魅惑的な場所に見えていたのだ。
そこかしこでナースコールが響き渡り、看護師たちの足音で病の囁きがかき消される。どこを向いても真っ白な壁と対峙させられる。

絶望した。
一刻も早く「病院」、とくに「入院病棟」「精神科」の呪縛から解き放たれたかった。
看護師との恋愛問題が解決されて、ようやくそれが叶ったように見えた。

なのに、大阪赤十字病院のその明かりがぼくの目の前にちかちかと灯り、こうこうと命を燃やすのだ。

これは憧れか?あこがれなのか?
またそこで暮らしたいという感情のあらわれなのか?
ともすれば、ぼくがいくら現状の家族や生活に不満があるとすれども、完全に病棟生活からは抜け出でられてないということになる。

もはやぼくにもわからない。
なぜこんなにもこの総合病院の蛍光灯がぼくの胸に残酷なまでの傷をつけるのか。
なぜこんなにもこの光がぼくを惹き付けるのか。

2年という長い年月を病棟で暮らしてきて、それに慣れ親しんでしまうことはごく自然なことだろう。
けれど、そこから解放されたところで普通「帰りたい」とまで思うだろうか?


ここまでうやむやに誤魔化してきたが、この際はっきり言ってしまおう。

ぼくは病院に帰りたい。
夜勤のスタッフの険しい表情を見て心のなかでエールを送ったり、治療にあたって心が折れてしまった時励ましてくれる看護師たちと接しているほうが、今家族に侮蔑されて「学費のためだけ」に実家暮らしを続けている今よりずっとずっといい。

そもそも、病院を「帰る場所」として認識していることが間違いなのだ。
病院は「行く場所」であり「帰る場所」ではない。けれどぼくにとってはもはや病院は、病棟は、ぼくを唯一あたたかく迎え入れてくれる楽園のような場所になっていた。

もうそろそろ、限界がきているのかもしれない。
つぎ病院で暮らすことになったら、もう社会には戻れない覚悟だ。つまり、死んでしまおうと思っている。けれど日に日に、ちゃくちゃくと病院への憧れは強くなっている。同時に、畏怖も強くなっていく。

車窓にはかならず大阪赤十字病院のビル窓がうつる。
ぼくはそこからどう目を背けて生きていけばよいのだろうか?

好き

一生涯愛せる人。
例えそれが結ばれない相手だったとしても、繋がってはいけない人だったとしても、もうその想いは止めることなどできないのです。

推し看。推してる看護師で推し看。

ぼくがその感情が「推し」ではなく「恋愛感情」だと気づいたのは、最初の入院ではあったものの相当に仲良くなってからのことでした。
仲良くなったといっても挨拶以上にお話ししたり同伴外出で出かけたりするようになっただけのことなのですが、ぼくははじめ彼のことが少し苦手でした。
若くてごつい身体に威圧感のある長身、ちょっとモテなさそうな伸ばしっぱなしの髪。……に似合わない猫撫で声。何を考えているのか分からなくて、ちょっと怖い存在。
ぼく個人の担当看護についたのがとっても可愛らしくてぼくによく尽くしてくれる女性の看護師さんだったので、わざわざ怖い人とつるむ必要もなく、2階の看護師さんのなかではお話しし始めたのは一番遅かったと思います。
でもお話してみたらただ自分に自信のない、律儀で真面目な好青年だとわかったのです。同伴外出でパンを奢ってもらって一緒に食べたこともありました。近くの商店街に美味しいパン屋さんがあると聞き付けた彼がぼくを誘ってくれたのです。
「明日も日勤やから一緒に行こうよ」
それを聞いたぼくは本当に本当に嬉しくて、その日の夜は頓服をもらっても眠れませんでした。
そのお店での会話は本当にどうでもいいことなのにとてもよく覚えていて、今でもたまに思い返してつらくなってしまいます。
あと、2回目の入院の時に行ったお正月のお祭り。あれは二人っきりじゃなかったけど、同じ病棟の少年と3人でおみくじ引いて、くじ引きして、ネチネチしたたい焼きを食べた。
妹がいて、同じ看護の道に進むため頑張っているんだと。
思えばあの瞬間が人生のピークだったな。

ああ、戻りたい。

2度めの入院は受診中に彼氏に別れ話を持ちかけられて荒れてそのまま医保って感じだったけど、あのとき彼氏から別れたいと言われなかったらこの幸せはたぶん受け取れてない。


今でも思うんです。

もしあのとき、想いを伝えるのを堪えられていたら。

もしあのとき、悪い返事を無理に求めて追いかけていかなかったら。

もしあのとき、もし、もし―――……


これは結局タラレバで、もう好きになってしまった時点で想いを伝えるのはハナから決定事項で、失敗して引き裂かれて悔いるのはただの見苦しい未練だというのは分かっているのに、分かっているのに。
彼に対する愛憎を捨てきれない。
病院という大きな組織に阻まれたこの糞恋愛は、もう実ることなどないと分かっているのに好きがやめられない。
彼氏がいても関係ない。彼氏のことはもちろん好きで、結婚したいくらいめちゃくちゃに愛している。世界で一番好きな人だ。

だけど。でも。
やっぱり彼のことを想うと涙が溢れてきて視界が滲む。ぼくが彼のことを見ていたときのように世界がじんわりとやさしく蕩けていく。

ああ、好きです。

愛しています。

うまく過去形にできないのが苦しいんです。
もしあなたが看護師でなく医者だったら、この想いを治してくれますか?


.


告白騒動は病院に知れてしまい、ぼくらは一生、一目も会えなくなってしまった。

懺悔はしている。患者が勝手にそういう個人的な感情を抱いたことで彼はとても困惑し恥すら覚えただろう。
けれど、後悔はしていない。……と言わなければ自分を殺してしまいそうなのだ。
正直、告白すれば失敗するし、次の入院から2階にはいられなくなることはわかっていた。
それでも想いを伝えられずにいられなかったのだ。それほどまでに愛していたし、それほどまでに憎かった。狂おしいほど自分のものにしたくて、なのに手に入らない場所にいる彼が疎ましかった。

殺したいほど、逆鱗に触れ続けていた。

ぼくの愛の告白は、彼の心臓を貫く鋭い刃になってくれたでしょうか。脳天を撃ち抜く清い弾となってくれたでしょうか。


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一生涯愛せる人。
愛する「べき」人が現れたとしても、その人は忘れるまで愛し続けてよいと思うのです。
例えそれが手に入らないものだとしても、だったらなおさら、夢として掲げておくのも悪くはないのでしょう。

大和郡山

8/25
2018年7月1日にssb84tが自殺配信した近鉄郡山駅にお花を供えに行きました
本当は向日葵が欲しかったんだけど、売っている花屋が近くになくて仕方なく本人が好きそうなピンクの薔薇が組まれた花束を持っていきました こんな季節なのでオレンジも入ってるやつを
ぼくも近鉄線近郊に住んでるけど、郡山はやっぱり想像以上に遠くて、でも今ssb84tがいるところはもっと途方もないくらい遠いところで、とても侘しくなりました。

あの動画との出会いは確か入院中で、外泊の送迎に来てくれた父の車のなかで何度も何度も繰り返し見ていました。
同い年、同じ精神疾患、同じ関西の子が世を儚んで、澱んだ暗い目で詰んだ一点の未来を見つめ躊躇いもなく軽やかにホームを踏み切り、華々しく散っていく様を見てぼくが憧れを抱かない筈はありませんでした。
憧れと言っては語弊があるかもしれません。
しかし、そこに倫理や道徳を差し置いた耽美が、そしてどこか啓蒙的ともいえる美学が確かにありました。
わたしもこうなりたい、という憧れではなく……なんというかな、汚してはならない神のような、そんな存在に見えてならなかったのです。

ある方々にとってはこれは「単に自己顕示欲の強い女子高生が最期に撒き散らした迷惑なネットミーム」「一時すれば忘れられるもの」としか捉えられないものだったのかもしれません。しかし、ぼくにとっては毎年きっと思い出すだろうし、永遠の‘ssb84t’です。
彼女が飛び込む瞬間、その背には真っ白な翼すら見えました。それほどぼくにはssb84tは衝撃的な存在でした。
TwitterInstagramでssb84tのIDが全く彼女を知らない赤の他人に使われるようになったとしても、ぼくがssb84tの名を背負ったこのブログを書かなくなったとしても、それはずっと変わりません。

人には必ず忘れられない死が存在すると思います。
それは好きなアイドルや俳優の自殺だったり、ふた昔ほど前に一世を風靡した往年の歌手の大往生だったり、ぼくのように小さな田舎町に住む少女の飛び込み配信だったりするでしょう。もしくは単に身内の死がショックとして残っているかもしれません。

あるいは、実在する人物に限らずとも、廃盤になって新作も書かれなくなったゲームのキャラクターだったり、どこかで立ち読みして買えばよかったのに買わなかったばっかりに作者もタイトルも忘れてしまった、でもストーリーだけは忘れられないあの小説だったり、あのときまでは確かに解けた数学の難問だったり、休日予定をすっぽかして眠りこけてしまった余計な8時間だったり。

死んでしまって、もうだれにも取り返せないもの。
生老病死のうち、時が経って生の苦しみを忘れていくにつれて、一歩一歩着実に老いるし死に近づいていく。大なり小なり、病む瞬間は誰しも必ずやってくる。

その1日1日を無駄にしてしまっていることへの恥と、「なんで頑張らなきゃいけないの」の気持ちとがぐっちゃぐちゃになって、もう誰も信じられなくなって、自ら助けを拒絶して、気づいたらお望み通り周りには誰もいなくなってる。そんな生き方がよく似合う金髪。

はやくしにたい。

1周忌

ぼくは去年の夏、ODであと10分搬送が遅かったら、あと数錠薬が多かったら、というレベルの生死をさ迷いました。
8月26日、2学期が始まって間もない日。隣の校舎の共用トイレの個室で起きた出来事でした。
倒れて体重のかかった腕は鬱血して紫色に腫れ上がり、もともと爆弾を抱えていた右足首の靭帯が倒れた拍子に再び切れていました。
致命的な低血圧で呼び掛けに応答することもなく、右足の付け根を切開して1本、そして喉に直接、太い管が挿入されました。

それでもようやく目が覚めたのは、9月になった急性期病棟でした。


ぼくは、こんな経験をしていてなお自殺が悪いことだと一概には言えません。
年間80万人が自ら死を選ぶこの地球で、どのラインが限界か、どこまで生命活動に耐えられるかというのもアイデンティティのひとつだと思うのです。

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これが、ぼくがカメラテストで読んだ文章です。
自殺を実行し、失敗した。生き残った自分にしか体験できなかったことを詰め込もうとして、焦点の当てかたをミスってただの日記と化してしまいました。

当時のリアルな光景ももちろん時間があれば伝えたかったのだけれど、ぼくが言いたかったのはそういうことではないのです。
審査員の方々は「あれ?この子結局なにが言いたいんだ?」と気づいてくださったかもしれませんが。


ぼくはなるほど、8月に自殺を試みました。
足の付け根に消えない傷が残り、喉の挿管で内部を傷つけ、一生歌えない体になりました。(高い声が出せない)
ですが、その時どんな状態だったかとかどんな治療を受けたかなんて誰も興味ないと思うのです。

興味があるとすれば、「自殺に走った動機」「死に術にODを選んだ理由」「今でも死にたい気持ちはあるか」とか、そういうことでしょう。

このブログ記事を審査員の皆様が読んでくださるかどうかは分からないけれど、文章を作って1分に削る前の文章で弁明させてください。
それを見て、本当にぼくが伝えたかったことをわかってほしいです。審査に影響しなくても構いません。1分という枠に自分を納められなかったばかりに自分の人格や経験を誤解されたくないのです。


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ぼくは去年の夏、ODであと10分搬送が遅かったら、あと数錠薬が多かったら、というレベルの生死をさ迷いました。
8月26日、2学期が始まって間もない日。隣の校舎の共用トイレの個室で起きた出来事でした。
ぼくを見つけて通報したのは、皮肉にも授業が始まっても教室に戻ってこないぼくを探した先生でも、担任でも学級委員でもなく、偶然トイレを使用したひとりの中等科教師でした。
授業に一人生徒が欠けていたところで、ましてぼくがいなかったところで、誰も気には止めてくれませんでした。誰も、気づいてくれませんでした。
持ち上がり2年目のぼくの新しいクラス。
ぼくは下級生相手に素直に積極的な交流ができるほど人間できていないし、彼らも彼らで突然転がり込んできた上級生を歓迎する生徒などいるはずもない。
遅刻を繰り返す素行不良とまで思われていたぼくは1、2年生の頃と同じ、毎日ひとりぼっちで生きていました。
体育でペアを組むときもひとり。毎日の昼食も、仲のよかった先輩が卒業してしまってからはひとり。放課後もひとり。調理実習や校外学習、学校行事でまでひとり。唯一生き甲斐を感じるときが、テストの席次返却のときでした。
それで思うような結果が出せていないと、その場で機嫌を損ねて受け取ったばかりのその半ピラのコピー用紙をゴミ箱に投げ込み、教室を去ることもありました。

いつからだろうか。「人に勝つこと」に執着するようになってしまったのは。何か人に勝ることがあったとして、それがぼくが人間的に優れていることにはならないのに。
夏休みが終わって、実力考査があって、勝ってたとしても負けてたとしてももうその結果を見るのも嫌で、もう勉強で勝ち負けの闘争に乗りたくなくて、でもそれ以外戦えるものなんてなにも持ってなくて。
その日、本当に精神が限界に達していたのでしょう。
実はぼくはその日薬を持って家を出た記憶も、その薬を学校に持ち込み一気飲みした記憶も、後で見返したスマホに残っていた大量の錠剤の写真を撮った記憶も、救急搬送された記憶も、手当てを受けた記憶もないのです。
だから、ぼくが自殺に走った動機は「ありません」。
人間、本当に精神が死んでしまうと無意識でぶっ飛んだことをやらかすんだなと心底思い返します。

ぼくは、こんな経験をしていてなお自殺が悪いことだと一概には言えません。
いま、年間80万もの人間が自ら死を選ぶといいます。
これは、戦争や殺人で亡くなる人間の数より圧倒的に多い数字です。ぼくのように失敗してしまった人も入れると、それこそ途方もない数になるでしょう。
そしてその数は未だ増加傾向にあります。

人生における不運や不条理に対して、どのラインが限界か、どこまで生命活動に耐えられるかというのもアイデンティティのひとつだと思うのです。

例えば安楽死
ここ何年、何十年と是非が叫ばれるテーマですが、ぼくはこれには反対です。「送り手の精神問題」があるからです。
この場合の「送り手」は、安楽死を遂行する医師やスタッフ、費用を負担したり、死を見届ける家族や周囲のすべての人間を指すと考えてもらって構いません。
とくに最後の一手を下した医師やスタッフは、よほどゴツい神経をしていない限り何人もの安楽死に連れ添ううち精神は病んでいってしまうでしょう。
しかし、それを解決する手段はもう安楽死しかありません。自らを苦しめてきた安楽死に最後を看取られることほど悔しいことはないでしょう。
それが何代にも渡って永久に解決されず続くのだから、医師のなり手が少なくなることは想像に難くありません。

安楽死が認められない以上、この世を放棄したい人間に残された道は自殺しかないのです。
ただ、死体を片付ける人間の精神の気遣いも忘れてはいけません。とくに夏、腐敗した亡骸を移送するのは自ら人を殺すまでではないにしてもつらいものがあると思います。
だからぼくは自殺の方法にODを選びました。それも、「劇薬」と呼ばれる薬が大量に手に入る立場でなければ実行していません。単なる抗鬱や睡眠薬で死ぬのが難しいと知っていたので、薬品名は伏せますがその薬がある程度溜まるまで毎日薬を我慢して200錠近くかき集めました。半年近くかかりました。
今思えば、半年薬を飲まずに生活してなんとかやれていたのだから、薬をちゃんと服用していればもっとうまく生きられたはず。どうしてそうしなかったのか。そうすれば、なにも死のうと思うこともなかったかもしれないのに。と思います。

けれど、仮に薬を毎日ちゃんと飲めていたとしても、その日が来たら死のうと思ったと思います。もし人生が毎日充実していたとしても。なんとなくですが、幸せなら幸せなまま、不幸ならそれ以上不幸になる前に死にたいのです。


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2019.8.26がぼくの寿命だったのでしょう。
だから今死にたいかと言われたら……分かりません。

無敵の天才神童は中二で朽果てた

素数を見つけた人。
電気を光に変えた人。
文字を思い付いた人。
生物の体が、細胞の分裂によってできたと気づいた人。
ある論学の矛盾点を指摘した人。
患部を切り開いて疾患を取り除けば解決すると考えた人。
なにがどの薬になるか、試してみた人。
予想だにしない着想の絵画を納めた人。
武器を作った人。
お金を作った人。
コンピューターを作った人。
スポーツで人間離れした記録を残した人。


「神童」


ぼくは小学生の頃から、周囲から浮いた存在だった。
わかってるさ、みんなぼくの才能に嫉妬していた。
勉強なんてしなくてもテストは毎回花丸満点、50m走は7秒台前半。頭の回転が早くてリーダーシップもあるから、児童会の役員をやってた。読書が趣味で博識多才、料理をさせたら同学年のなかじゃとてもとても右に出るものはいなかった。
顔もそれなりにかわいいし、肌も白くてほっそりしてる。よく食べるし、よく笑う。
周囲の母親たちからはこう呼ばれていた。
「神童」と。

「天才」ではなく「神童」_____。

そう、今思えば全部「中途半端」だったんだ。
神様にすべてをバランスよく、偏差値60ずつくらい与えられた最強無敵少女、それがぼくだった。

ぼくはその才能にかまけて、努力をしなくなっていく。ソフトボールをやめ、ダンスをやめ、キックボクシングをやめた。

そして中学に入って、何だか自分の存在に「違和感」を感じるようになる。
受験期に差し掛かるまでは定期テストで満点を目指せばいい話だったが、ここからは違う。見ず知らずの、授業もしていない人間が勝手にレベルを推測して作ったテストで満点を目指さなければならないのだ。
範囲が広すぎて一夜漬け(それどころか登校の10分で詰め込む)ことも、山を張ることもできない。

そこからだった。

努力組に幾度となく涙を呑まされるようになったのは。

小学校6年間で染み付いたのは、
「ギリギリでもなんとかなる」
「努力して取る満点より、努力はせず努力したときの期待値を残して取る80点のほうが価値がある」
というひねくれた価値観だった。
努力をしないためならどんな狡いことだってしたし、カンニングしやすくするためにわざとテストの日に遅刻して別室で受験したこともあった。


そして、ぼくは公立高校を落ちた。

私立の大学付属高校で、ゴミ担任からの人格否定を受けて鬱になった。
おまけでADHDという病名もついた。



幼少期あまりに不出来なことがなさすぎたためこの歳まで気づかなかった。
皆さんの周りにも、「神童」はいませんか?
ぼくが知っている神童の方々は、ほぼ全員同じ道を辿っています。どうか、軽々しく餌をあたえないでください。