裸婦の目触れろ、白蝮踏め

安酒と薬にどっぷり漬かってラリりながら書いてるオナニー文章です

死の季節ゼロヒャク

「死の季節」をひとつ挙げるとして、憶測だが最も多くの人が「冬」と答えるだろう。枯れた木、眠る生き物、何となくブルーで物寂しい季節。
次点で夏。夏というものは存在自体がどこか死の臭いを携えている。花火、蛍、海月の海。有終の美の象徴がそこにはある。

けれど私はその問いに、圧倒的に「春」を推したいものだ。

春?

美しい生命の息吹、咲き乱れる色彩豊かな花々、新たなる日々の誕生。
死の季節とは対極にあると思われるかもしれない。
けれども私はそこに、得体の知れない恐れと不安を感じるのだ。
もっとも、その畏怖の由来は春の「完全性」にあると分かりきっている。

例として、ミロのヴィーナスという作品は、その体の美しい均衡すなわち完全性もさることながら、一番の魅力はやはり失われた腕という不完全性の存在であると評さざるを得ない。
このように、人は未完成ないし不完全なものに強く惹き付けられる性質を持つ。
人と人とが互いに魅せられ合うのも、ノルウェイの森の結末が称賛を呼んだのも、いかにヒトが完全性を欠くものを好むかということの証明といえるだろう。
その点において春は最も敬遠されるべき季節であると思うのだ。
そして、往々にして完全に至るということは暗に終わりを示していると言える。

具体的なものでいえば、満開の桜。満開になると同時に、桜は自身の魅力を最大とし、そのあとは急速に単なる一本の木へと収束していく。
あるいは、土に芽吹く若葉。種のうちで眠っておけば日の目を浴びるその日の姿は私たちの想像の中で無限につくり変えられる。けれど、それらが私たちの前に姿を見せたその瞬間にその葉はもはや完成された何らかの植物の姿以外を想像させない、ケチ臭いpart of “the”plantでしかなくなってしまう。

春、言うなれば誕生と成長の集合体であるこの季節は、言い換えれば100%化の連続、つまりは終わりの連続でもあるのだ。

対して冬における死は”0”をあらわす。
木に葉はなく、地面の虫は死に絶え、すべてがまっさらのキャンパスだ。その先には言うまでもなく限りないプラスが広がっている。決して本当の意味での死の季節ではないのだ。

その先が存在するか、しないか。
そのベクトルでふたつを比較したときに、冬(0)と春(100)どちらがいかに「終わっている」か、理解してもらえるはずだ。


ところで、私はよく人に死にたいと思う理由を尋ねられるのだけれども、特に辛いことはないというと変な顔をされる。彼らは恐らく死に対して0%化のイメージを抱いているのだろう。それも間違いであるとは言わないし、世間一般的な死とはそういうものなのかもしれない。

けれど私の死のイメージは言わずもがな100%化、打ちきりではなく完結なのだ。その根本を知らない人間に、無責任に死を否定されたくはない。

誰しも人生の経験を楽しみ悲しめるキャパシティは決まっていて、酸いも甘いも積み重ねて突き詰めていけば必ず満たされるときが来てしまう。
普通はその限界値と寿命とがおおむね一致するか、あるいは寿命が先にきて、満足できないまま一生を終える。

それが私は逆だっただけなのだ。
17年、コンパクトながらもその中に良いことも悪いことも詰まっていて、この身に生まれもったキャパシティいっぱいに味わった。
大満足とはいかないが、それなりにコスパのいい一生だったと自負している。

どちらが幸せかは自明だと思うのだが。

私は、人生というものは長篇の大作なんかではなく多くが引き延ばしの駄作であると考えている。
冬、一月一日から一年が始まるのと同じように、なにも持たない0の状態で生まれ(性悪説ではない)成人する辺りで既に希望も絶望も一回ずつ位は味わって社会に出ていく(=春を迎える)。
起承転結、本来それで十二分のはずなのだ。
何度も転があったって飽きるだけだし、起と結は一度きりしか起こらない。それ以上は必要ない。
長さこそちょっと笑えるショートショートくらいのものだが、物語としてはそれで完結していいのではないか。
当然、種の存続は不可能だが、そもそもの話としてその遺伝子を本当に後世に残すべき人間がこの世にどれほどいるだろう。

少なくとも、冬を死の季節と答える人間はそこに当てはまることはないだろうが。