裸婦の目触れろ、白蝮踏め

安酒と薬にどっぷり漬かってラリりながら書いてるオナニー文章です

狂気がレントゲンに写れば

「私、本当は病気じゃないんです」

雨が降っていた。
夏だというのに、空は重苦しい灰色で、肌寒さすら感じる昼下がりだった。
午前の診察がやや長引いて終わり、昼食を取ったあとでふと思い立って病棟の図書室を訪れていた私は、そこでパジャマ姿の塚本さんと出会った。
椅子を後ろに傾け、サンダルを引っ掻けた蝋のような裸足をテーブルにどかんと置いて読書をしている彼女を後ろから見かけたのだ。

「こら。テーブルに足を置くのはやめなさい。それと、椅子をそんな風に傾けていたら後ろに転んで怪我をするから、ちゃんと座って読みなさい」

カルテの束で軽くこづいて注意すると、唇を尖らせて椅子の前足を地に落ち着けた。

「なんの本だい?」

「......」

塚本さんは目線を文庫本に落としたまま、何も言わなかった。その目に警戒するような色は見えず、ただの“無視”だとわかる。

塚本悠花は18歳の少女で、15歳で外来の初診を訪れてから3年間を通して強い抑鬱症状を訴えており、何度かここに入院していた。
恐らく今回で入院は4回目で、なおかつ期間は今のところ一番長い。担当医は私ではないが、談話室や図書室でここ半年ほど連続して彼女の姿を見、今もまだ退院しそうな様子はない。
この病棟の患者は身寄りのない認知症患者、鬱や精神分裂症の中高年が殆どを占めていて、塚本さんと仲良くなるような若い患者はいない。よって、作業療法室で陶芸をするときも、談話室でテレビを観るときも、彼女は独りだった。けれども、それを本人はさして気にする様子もなく、反りの合わない患者とトラブルを起こすでもなく、大人しく療養している。
担当医と担当の看護師を除いて、スタッフも彼女が入院している理由をよく知らない。しかしながら、比較的落ち込みも少なく、自傷他害や衝動行為もないいい子なので、見かける度に軽く話しかけるスタッフは多かった。
私はそのひとりではなかったが、作業療法の時に何度か言葉は交わしたことがあった。


「面白いのかい?その本は」

問いかけに返答がない患者はそう珍しくない。
腹を立てることもなく、私はもう一度話しかける。これで無視を続けられるようなら、そっと声をかけて立ち去るつもりだった。
しかし、彼女が次に口にしたのはまるで的外れな言葉だった。

「私ね、ほんとは病気じゃないんだよね」

「え?」

「坂本先生には、内緒にしててほしいんだけど」


坂本医師は塚本さんの担当医だ。
予想だにしない返しに、つい口止めを承諾してしまった。

「私、本当は病気じゃないんです」

さっきの言葉をもう一度はっきり反芻するように繰り返す。凛とした声が、静かな図書室を転がるように駆け抜けていった。彼女の口元は、自嘲ぎみな笑みを携えていた。
ようやく本から顔を上げ、こちらを見据える。
塚本さんはパジャマの胸ポケットから出したポラロイドの写真紙を栞代わりに挟み、ゆっくり頁を閉じた。本はミステリーらしかった。作者の名前はよく知らない外国人だった。

「学校通うの、昔から面倒だったんです。たまに仮病で休んだりして。中学の三年になってみんなが塾に通ったりするようになってから、授業もなんだか間抜けなものになって。行く意味ないなって、自分から通うのやめたんです。高校も同じでした」

「あのね、学校に通えなくなるのは立派に病気だと思っていいんだよ。何も君ひとりの責任じゃないんだ。だからこうして、みんなで治療してるんだよ」

「ううん、違うんです。
私はここの外来に来たときから、学校にいかなくていいように病気の格好をしていただけなんです。
問診票もわざとネガティブな答えを書いて、眠れないって言ったんです。私、今も本当はお薬なんてなくって眠くなります」

詐病ってことかい?ダメだよそれは。なんで僕に話す気になったのかは知らないけど、ちゃんと坂本先生にも報告させてもらう」

「話は最後まで聞いてください。......確かに、私は多分病気じゃないんです。最初のうちはそう自分でもわかってました。少しの間学校とか色んなことお休みできたらそれでよくって......
けど、途中から本当に治療になってしまって、私も引っ込みがつかなくなってしまって一年が経ちました。その頃も入院したり毎週病院に通ったりお薬を飲んだりしてたんですけど、そのうちほんとに死にたくなってきたんです。嘘が嘘じゃなくなっちゃった。
演技でやってた過呼吸も、最近は本当に息ができなくなっちゃったり、手首を切りたくなることもあります。今では病院の外に出るのも怖くて、学校にも社会にも復帰できる気がしません。怠け癖がついちゃったのかも、って思って退院したあとバイトしたりもしてみたんですけど、やっぱり人が怖いんです。
当たり前だけど、ここは健康な人が来るとこじゃなかった。変なパワーが蔓延していて、それに飲み込まれてしまったんです、私」

「......それならそれで、ちゃんと先生には相談しないと。起こりはどうあれ死にたい気持ちがあるうちは退院もさせられないし、場合によっては病棟を移ってもらったり、行動制限をかけることだってある。その症状はちゃんと先生に話してるかい?」

「いちおう。だから今となっては単なる患者ですし、治療もちゃんと受けます。それで、患者になってしまった以上嘘ついてたのは時効でお願いします」

「......わかった。今自分がしてしまったことと、今の病気と、ちゃんと向き合っているようだから。
坂本先生に話すのは少し考えてみるよ。けど、やっぱり報告すべきだと判断したらその時は申し訳ないけどしかるべき対処を坂本先生から受けてね」

「分かりました」

少し不満げな顔をしつつも、彼女は小さくうなずいた。


変なパワー。

確かに、ここは健康な人が来る場所ではない。他の科の医師が用事に訪れても、嫌な顔をしながら入ってきて嫌な顔をしながら出ていく。
窓に格子がはまっていること以外別段病棟の内装に大きな差異はないというのに、毎日精神科病棟から出ていくときはすうっと解放感を感じている節が私にもあった。逆に、病棟に入るときにはぐっと気を引き締めてなにかに耐える。
可愛らしく清潔感のある病棟なのに、何故かどんより暗く感じることがある。今日のような雨の日はそれに拍車がかかった。所々で聞こえる叫び声、泣き声、慣れるまでは毎度毎度背筋が凍ったものだ。

私は精神科医だ。他の科の医師であった場合と同じように、ときにそれ以上に、患者一人一人に向き合っていかなければいけない立場だ。
それでもやはり、精神科病棟はなんだか特異な空気を感じとらざるを得ない。それは私が病人ではない証拠だろうか?鍵のかかった鉄扉から向こうにいる患者たちと何が違う。塚本さんの病状はどこまでが伊達でどこまでが酔狂だったのだろう。私は偉そうに指図していてよい立場なのだろうか?

正しさってなんだろう。
人はどこから狂人になるのだろう。

しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。


はっと我に返ると、彼女はすでにいなくなっていた。
足元に何か落ちていることに気づいて拾い上げる。
ポラロイドだった。彼女がさっき本に挟んでいたやつだ。落としていったらしい。
そこに写るのは人でも物でもなく、「闇」だった。
じっと見つめてみても何かの像を認めることはできなかった。
ちょうどカメラのレンズを手でおさえてシャッターを切ったような、そんな写真だ。
失敗したのだろうか。彼女にだけ何か見えているのか、はたまたこれを彼女が気に入っているのか、全くわからない。今まで以上に塚本さんがわからなくなっていた。

その後、二度と言葉も交わすことなく、塚本さんはふた月後に退院が決まった。


彼女の入院期間、最後の夜に当直にあたった。
準夜帯の巡回をしているとき、彼女は談話室で子供向けの絵本を眺めていた。
彼女は、こちらに気づいてくれた。
ものは言わなかったが、こちらを見やってちょこんとお辞儀をしてくれた。
けれども、最後に見たその生気のない眼は、明らかにまだ「あっち側」の人間のそれだった。
健康な体で生まれた彼女は、自ら勇んで「あっち側」に飛び込んでいってしまったのだ。

返しそびれたポラロイドを眺めてみると、その真っ暗闇とあの日の黒目の色が重なって、やりきれないような無念な気持ちになってしまう。
彼女が作り上げた精一杯の狂気が、そこに浮かび上がっているように見えてならないのだ。
狂気がレントゲンに写れば、彼女はもっと早くに救われていた。嘘を見抜いてくれる人がひとりでもいれば、きっと彼女はそれで満足だったのだ。
ある種無邪気な彼女の出任せが、彼女自身を闇に葬ってしまった。私はそれを、自業自得と責め立てることは永久にできないだろう。