裸婦の目触れろ、白蝮踏め

安酒と薬にどっぷり漬かってラリりながら書いてるオナニー文章です

「自殺」は尊い行為か、馬鹿な行為か

元来、自殺や心中は愚かな行為とされている。
例えば「あなた」が一人いるとして、再び「あなた」が生まれる確率は7兆分の1、しかもこれは生まれた時点で同じ遺伝子をもって生まれる確率ということで、考え方や趣味嗜好、病歴などは育った環境や経験によって左右される。つまり理論上、「あなた」が死んだとき「あなた」の代わりになる人はほぼ100%存在しないということになる。それくらい極まれな確率でこの世に生を受けた人間が、自らの意思でこの世を去るということがどれだけ罪深いことかー……という話である。
しかし反面、自ら死を選んで実行するという能力はある種の高い知能のあらわれともいえる。現に、自殺する動物は地球上で人間だけだという。イワシやバッタの一種、レミングが自殺を図ると考えられていた時期もあったが、集団的かつ偶発的な事故であることが昨今の研究で判明した。

ここでは、人間の自殺の動機、過程に絞ってお話ししていこうと思う。
タイトルテーマの私の結論を先に述べておくと、ひとつの意味において自殺は愚かだと考える。その一つの意味とは、「病識のある自殺」である。
とはいえ、ほとんどの場合で自殺には病識が伴う。また、病識の有無問わず病の伴わない自殺は存在しない。そもそも「自殺」が病気というべきだろうか。
つまりは、「死にたい」と望んだ時点で病気なのだ。それが精神的疾患から来るものなのか肉体的疾患から来るものなのかは人によるが、自分が「今死にたいと考えている」と冷静に考え付いた時点で病識ありと考えられる。そして、そのまま実行に移してしまうとそれは愚かな自殺といえる。
逆に尊い自殺は、自分が「今死にたいと考えている」と冷静に考え至る隙もなく半ば流動的に死んでしまう。それが尊いと考える理由は、単純に自然死に近いからである。
私は死因に誰の手が加わるかは思慮しない主義だ。そこに至るまでの道のりは大いに考えるが、結果死ぬときに誰の手によって殺されたかは本人の死にそこまで関係ないと考えている。何せ、死にたいと思っていた人が誰か他者に殺められてしまったら、本人の望みは達成できているのにそれを否定してしまうことになる。それはあまりに残酷だ。
しかしながら、私は自ら命を絶つこと自体には実は反対なのだ。だからこの場合の死は自殺、それも愚かな自殺だと捉えている。反対に死にたさはあってもまだそれが自分の望みだと気づいていない者の自殺は、自殺の手段に手を染めていてもそれが自らの望みが産み出した自分の行動だという意識がないため、運命のなかで流動的に死んでいったといえるだろう。

ヒトに限らず、命が生まれるというのが尊ければ死ぬことも尊い。そうやって地球は惑星としての均衡を保っているし、1種の生命が増えすぎると生態系のバランスは一気に崩れてしまう。
だから、ある程度の過程で命の数が削り取られるのはごく自然なことで、それが自然死や尊い自殺としてあらわれる。ただ、本来残るはずの命が自分の意思でそれを絶ってしまうとまた生態系的に具合が悪い。

私は思うのだが、人間を含んだ生態系のピラミッドはそういう愚かな自殺を行う個体の数を考慮して成立しているのではないか?
人間は年間80万人が自ら死を選ぶ特異な生物だ。そして自殺者は年々増え続けているという。それでも世界人口は約77億人、こちらも増加の一途をたどっている。しかし、勢いとしては鈍化しているそうだ。
歴史的にも定期的に新生物によって感染→死 をもってヒトが一部淘汰されるのも神道的ななにかを感じるが、そういう愚か者も最期に地球に大きく恩返しをして帰ってゆくのかもしれない。