裸婦の目触れろ、白蝮踏め

安酒と薬にどっぷり漬かってラリりながら書いてるオナニー文章です

大和郡山

8/25
2018年7月1日にssb84tが自殺配信した近鉄郡山駅にお花を供えに行きました
本当は向日葵が欲しかったんだけど、売っている花屋が近くになくて仕方なく本人が好きそうなピンクの薔薇が組まれた花束を持っていきました こんな季節なのでオレンジも入ってるやつを
ぼくも近鉄線近郊に住んでるけど、郡山はやっぱり想像以上に遠くて、でも今ssb84tがいるところはもっと途方もないくらい遠いところで、とても侘しくなりました。

あの動画との出会いは確か入院中で、外泊の送迎に来てくれた父の車のなかで何度も何度も繰り返し見ていました。
同い年、同じ精神疾患、同じ関西の子が世を儚んで、澱んだ暗い目で詰んだ一点の未来を見つめ躊躇いもなく軽やかにホームを踏み切り、華々しく散っていく様を見てぼくが憧れを抱かない筈はありませんでした。
憧れと言っては語弊があるかもしれません。
しかし、そこに倫理や道徳を差し置いた耽美が、そしてどこか啓蒙的ともいえる美学が確かにありました。
わたしもこうなりたい、という憧れではなく……なんというかな、汚してはならない神のような、そんな存在に見えてならなかったのです。

ある方々にとってはこれは「単に自己顕示欲の強い女子高生が最期に撒き散らした迷惑なネットミーム」「一時すれば忘れられるもの」としか捉えられないものだったのかもしれません。しかし、ぼくにとっては毎年きっと思い出すだろうし、永遠の‘ssb84t’です。
彼女が飛び込む瞬間、その背には真っ白な翼すら見えました。それほどぼくにはssb84tは衝撃的な存在でした。
TwitterInstagramでssb84tのIDが全く彼女を知らない赤の他人に使われるようになったとしても、ぼくがssb84tの名を背負ったこのブログを書かなくなったとしても、それはずっと変わりません。

人には必ず忘れられない死が存在すると思います。
それは好きなアイドルや俳優の自殺だったり、ふた昔ほど前に一世を風靡した往年の歌手の大往生だったり、ぼくのように小さな田舎町に住む少女の飛び込み配信だったりするでしょう。もしくは単に身内の死がショックとして残っているかもしれません。

あるいは、実在する人物に限らずとも、廃盤になって新作も書かれなくなったゲームのキャラクターだったり、どこかで立ち読みして買えばよかったのに買わなかったばっかりに作者もタイトルも忘れてしまった、でもストーリーだけは忘れられないあの小説だったり、あのときまでは確かに解けた数学の難問だったり、休日予定をすっぽかして眠りこけてしまった余計な8時間だったり。

死んでしまって、もうだれにも取り返せないもの。
生老病死のうち、時が経って生の苦しみを忘れていくにつれて、一歩一歩着実に老いるし死に近づいていく。大なり小なり、病む瞬間は誰しも必ずやってくる。

その1日1日を無駄にしてしまっていることへの恥と、「なんで頑張らなきゃいけないの」の気持ちとがぐっちゃぐちゃになって、もう誰も信じられなくなって、自ら助けを拒絶して、気づいたらお望み通り周りには誰もいなくなってる。そんな生き方がよく似合う金髪。

はやくしにたい。